井の中の蛙であれ

in #japanese7 years ago (edited)

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今の時代って物も情報も豊かで、自由も保障された時代だけれど、一方で独特の生きづらさがある。
生きづらさの原因は様々な理由が考えられると思うけれど、一つは現代がインターネット社会であるってことだと思う。

19世紀後半にかけて、情報通信技術が急速に発達していった。
極め付きはインターネットで、あらゆる国のあらゆる年代の人々がつながるようになった。
インターネットは、個々人に発信する力を与える一方で、人々を情報の渦へと巻き込んだ。

TwitterにせよInstagramにせよ、そういったソーシャルネットワークには、インフルエンサーと呼ばれる人たちが存在する。
彼ら彼女らは、なんだかキラキラしていて、悔しいぐらいに優秀だったりする。
アプリを開けば、あるいはニュースを見れば、そんなインフルエンサーたちの活躍が四方八方から届いてくる。

自分はこのことに危機感を覚える。
人は手の届かないくらい凄い人たちに囲まれると、その凄さに当てられて、自信を喪失してしまう。
自分の可能性の蓋を自らの手で閉じてしまうのだ。自分には力がないから…と。

学習性無力感という心理学用語がある。
赤ちゃんゾウに逃げないように鎖をつないでおく。幼い頃は力が十分ではないから赤ちゃんゾウは鎖を引きちぎれない。赤ちゃんはどうあがいても鎖がちぎれない物だと学習する
するとどうなるか、ゾウが大人になって、鎖を引きちぎるのに十分な力を身につけても、逃げようという発想が生まれなくなる。
これが、学習性無力感である。

人間でも、恋愛での失敗が続くことによって、"私は愛されない人間なんだ"と学習性無力感を持ってしまう人もいる。

同じことが、この現代のSNS社会で言えると思う。
現代はインターネットであらゆる人々がつながっていて、右を見ても左を見てもすごい人たちが目に入ってしまう。
すると、人々はすごい人たちと比較して、無意識のうちに自分なんてと諦めてしまう。
でもそれってとってももったいないことじゃないかな。

すごい人たちは、自分と比較して自己否定するために存在しているわけじゃない。
彼ら彼女らは、僕らが刺激を受けて、張り合って、あるいは夢や勇気を与えてもらえるような存在であるべきだ。
僕らが"凄い人たち"を刺激剤として活用するのであって、僕らは彼ら彼女らの自尊心を満たすための従者ではない。

すごい人が目に入ってくることが事の問題なら、目に入ってこないようにしてしまえばいい。
そのために何をするか。
コミュニティを小さくしてしまえばいい。

小学校の時、足が速かっただけで、折り紙が折れただけで、縄跳びで二重跳びができただけで、僕らはヒーローになれたはずだ。
中高の部活で、決して強いチームではなかったとしても、選手として出場するときは心が震えたはずだ。
世界からみたらあまりにちっぽけな社会だったかもしれないけれど、そこには十分なドラマがあったはずだ。

誰しも自分の物語を生きている。
誰しもが主人公になっていいんだ。
自分がここにいていいと思えるような、自分が必要だって思えるような、そんな場所を選んで活躍すること。

井の中の蛙であることは別に悪いことじゃない。
大海が広過ぎて迷子になるくらい危険な場所なら、井の中に留まって快適に暮らせばいい。
そして井の中がどうしても狭くなったのなら、そのとき大海に出ればいい。

※写真は新宿の牛カツもとむら。個人的に牛カツの中でイチ押しかな。わさびソースが格別。

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私はインターネットがあって良かったと思っています。世界中の人に私の絵が気軽に見てもらえるので。私はインフルエンサーには興味はありませんが、自分と同じ生きづらい人に出会えたのはよかったです。生きづらい人の中には引きこもっている人もいて、ネットがなかったら出会えなかったであろう人もいるからです。自分で自分の人生を生きるスパイスとして、ネットを利用すればいいのだと思います。

コメントありがとうございます。
@yadamaniartさんのコメントを読んで、インターネットの良い面悪い面、両方見極めることが大事だなと思いました。

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